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紅葉伝説考
七、紅葉の都 幾千秋

 ・鬼無里に伝わる別の鬼伝承
 ・遷都伝説の伝承地
 ・紅葉と鬼無里の遷都伝説
 ・八面大王再考
 ・紅葉伝説の真相?!
 ・鬼無里の義仲伝承
 ・源氏と山の民の関係、そして紅葉
 ・結 赤き紅葉の伝承
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鬼無里に伝わる別の鬼伝承
 鬼無里が「まつろわぬ民」の地であった── それを如実に語る伝承が、鬼無里に残っている。それは先に少し述べた、「鬼無里」という地名の由来説話である。その内容は次の通りである。
 壬申の乱に勝ち、律令国家の体制を固めていた天武天皇は、信濃に遷都することを計画した。そこで、三野王(みののおおきみ)という皇族が派遣され、その三野王が選び、図面を提出した場所が水無瀬だった。しかし、これを嫌がった水無瀬の鬼達は、その候補地の真ん中に山を置いて塞いでしまった。遷都計画を邪魔された天武天皇は、蝦夷征伐で名高い阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、その鬼達を討ったという。それにちなみ水無瀬の地は「鬼無里」と呼ばれるようになった、というものである。突拍子もない話だが、天武天皇の信濃遷都計画自体は日本書紀にも明確に記されていて、三野王が派遣され、図面を献上したことも書かれている。また、その後に再度信濃に使者を遣わし、近隣の温泉地に行幸するための一時的な宮作りを命じたことも記されていて、まるっきり荒唐無稽な話でもないのである。

遷都伝説の伝承地
 この話からすると、鬼無里とは紅葉以前から鬼の跋扈する土地だったらしい。鬼とは繰り返し述べてきたように「まつろわぬ民」の象徴なのである。しかも、ここでは征夷で有名な阿倍比羅夫に討たれている。これは鬼無里がもとより「まつろわぬ民」の根拠地であった証左であろう。
 なお鬼無里には、その鬼が一晩で作ったという作った一夜山という山をはじめ、この信濃遷都にまつわる伝承地がいくつもある。先に述べた、加茂神社も、派遣された三野王が「加茂大神宮」の称を与えたといい、勅使の館を置き、それによってこの地を「東京」と呼んだという。同じく紅葉が建てたという春日神社、春日神社のある「西京」も同様に遷都伝説に由来するものだという。遷都に由来する神社としては、新都の鬼門鎮護として建てられた白髭神社という神社もあり、平維茂が紅葉退治の折に戦勝祈願をした神社でもあるという。その他、遷都伝説に由来する場所として印象深いのは「月夜の陵(はか)」と呼ばれる墳墓で、遷都候補地調査の際、この地で客死した皇族某の墓と伝わる。この墳墓は、内裏屋敷のすぐ裏手の山にあり、ほとんど同一の場所である。また一説によると、月夜の陵は紅葉の侍女「月夜」の墓で、よく仕えたが夭折してしまったため、紅葉がその死を悼み、手厚く葬った場所ともいう。ほか、紅葉が京を偲んでつけたという地名には遷都伝説にも関わっているものが多い。紅葉が住んだ内裏屋敷にしても、そもそも遷都計画の際に定められた内裏の場所であったという。

紅葉と鬼無里の遷都伝説
 このように、鬼無里の遷都伝説は微妙な現実味を伴い、不思議な感じがするが、こうして俯瞰してみると、遷都伝説にまつわる地は、大方同時に紅葉伝説にまつわる地であることが分かる。これはまことに奇妙なことだが、その一致のしかたはさらに奇妙である。遷都伝説において皇族やその行動にちなむものが、ほとんどそのまま紅葉とその行動にちなむものになっているのだ。これを端的に見るならば、紅葉が皇族と同一視されてしまっているということになる。もっとも鬼無里では紅葉を官女であったもとし、貴女と呼んでいるくらいだからまったく故なきことではない。後世、異なる二つの伝承が部分的に混同された結果だといえばそれまでだが、完全には混同されることなく重複して伝わっているというのも奇妙な話である。思うに、この二つの異なる伝承の間には何か関連する事象があったのではないか。単純に考えれば、追放の憂き目にあった紅葉が、たまたまこの地にあった皇族客死伝承と自分を結びつけて生き延びようとしたか、村人の側で勝手に結びつけて神聖視したなどということがあろう。しかしそういった一時的・表層的なつながりとは思えないような根の深い結びつきを、二つの伝承は示しているように思われる。では、遷都計画の際に鬼無里で没した皇族某の血を引く者であったというのはどうだろうか。紅葉を地元の出身とする伝承もあるし、遷都伝説で「鬼」と呼ばれた土着民と交わって生まれた子孫であれば、一方で官女と呼ばれ尊ばれつつ一方で鬼と呼ばれて官軍に討たれたという両面性にもつながる。その子孫が流れ流れて会津に暮らしており、紅葉の代になって京に上るも追放されて祖先の地に帰ってきたのかもしれない。あるいは、紅葉が土着民と交わった皇族某の子孫と再婚したという可能性もある。

八面大王再考
 再婚、ということで思い出すのは、八坂村の紅葉鬼人の話だ。彼女は安曇野の八面大王と結ばれて、金太郎を生んだ。この紅葉鬼人が紅葉と同一人物ならば、経基から追放されて後の再婚ということになる。八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた鬼であり「まつろわぬ民」で、皇朝と反する立場だが、土着豪族安曇族の末裔とも言われている。安曇族は古代日本にやってきた海洋民族とされ、賀茂氏と同じように一方で皇朝にも仕えつつ、一方で全国に移住し、その移住地には安曇の名が残っている。八面大王が根拠地とした信州安曇野はその代表的な例だ。八面大王を「やめのおおきみ」と呼び、地方豪族ながら由緒ある一族としての誇りを持っていたというような説もある。実際、安曇族は皇室とも並ぶ古く由緒のある一族である。もしかすると皇朝以前に「大王」とされるような尊き一族であったかもしれない。皇朝支配が全国に及ぶ前の時代には、特定の地方の「大王」であった可能性は十分にあるだろう。信濃が皇朝の枠組みの中に入ったのは西国に比べれば後のことなので、そこそこ後の世まで皇朝支配に組み込まれていない地方の「大王」の政権下にあった可能性はある。八面大王の伝承は、安曇族かどうか分からないが、そうした地方の「大王」の最後の抵抗を物語るものかもしれない。

紅葉伝説の真相?!
 鬼無里の遷都伝説にまつわる鬼退治も、そうした地方政権の抵抗と敗北の伝説化と思われる。少なくとも「まつろわぬ民」の征服譚ではあろう。史実とされる天武天皇の信濃調査も、「まつろわぬ民」の鎮撫が目的で、別の政権の「都」を征服せんがためであった可能性もある。本当は「まつろわぬ民」達の「都」であったものが、皇朝により滅ぼされ、世を憚りつつもその誇りを伝えていこうという意志の結果が、「遷都」という伝説を生んだのかもしれない。かつてここに我々の祖先が築いた都があり、我々はその都人の子孫であるということこそ、遷都伝説が伝えられた真の意図かもしれないのだ。月夜の陵の主はそうした地方政権の支配者の墓かもしれないし、鬼無里の「都」の滅亡後、監視役として留まった皇朝の皇族なのかもしれない。後者だとしても、村人に丁重に扱われてきたことを考えれば、やがて土着化していったものと思われる。紅葉のように、土着民を慈しんで、皇朝の文化を伝えたのかもしれない。それであれば、後に紅葉の伝承と重なるということもあり得る。
 やがて、安曇野で地方政権の最後の蜂起があった。そのとき、間接的にかもしれないが、八坂村や鬼無里村も八面大王に協力体制を取ったのではないか。あるいは、八面大王討伐後の落人を匿ったのかもしれない。落ち延びてきた八面大王の親族が、紅葉であり、紅葉は鬼無里の人々の協力を得つつ、再戦に備えたが、村人を巻き添えにするに忍びなく、郎党のみ引き連れて荒倉山の岩屋に陣取った。が、結局は皇朝の軍に敗れた。あるいは滅ぼされた八面大王の親族が、再起のためか復讐のためか京へ潜入した。やがて産鉄の民とのつながりを求める源氏との関係を構築するに至るが、源氏としてもリスクが大きいため、結局関係は切れてしまった。そして故郷あるいは後援者のいる鬼無里にて力を蓄え、荒倉山にて再蜂起を試みるが、やはり敗れてしまった。だが、その子孫は生き延びて、やがて様々な因縁と利害から源氏の棟梁直属の部下となった。それが金太郎、坂田金時である。

鬼無里の義仲伝承
 紅葉伝説の真相とは、以上のようなものだったかもしれない。無論これは散在する伝承を筆者が組み上げた素人の推測にしか過ぎないが、紅葉伝説は、ただの空想、おとぎ話ではないのは確かだろう。まず山姥的な太古神の零落、女性中心の太古の呪術宗教の零落譚であることは間違いないだろうが、それ以上に、何やら妙に現実味を帯びた政治的・歴史的背景を感じ取らずにはいられない。その一つは、山の民とのつながりである。だがそれだけなら、大方の「鬼退治」譚に見られる事柄だ。今一つは、その「鬼退治」に活躍した源氏との関係である。紅葉伝説では、結局紅葉は源氏に追放されはするものの、源氏に討たれはしなかった。討ったのは、平氏である。時代からして、後の世の源平争乱とは無縁のように思えるが、これが全くそうでもないようだ。
 鬼無里には紅葉伝説・遷都伝説の他に、清和源氏・木曽義仲の伝説もある。一つは義仲挙兵の際に鬼無里を通ったという話。もう一つは、義仲敗氏後、その子・力寿丸(りきじゅまる)が隠れ住んだという話である。鬼無里の山奥、内裏屋敷のそばを流れる裾花川のはるか上流に、「木曽殿アブキ」(アブキとはアイヌ語で「岩穴」を意味するとされ、この地に縄文の末裔達がいたことを偲ばせる)と呼ばれる巨大な岩穴があるが、これが義仲が進軍の折野営した地であり、また力寿丸の隠れ家でもあったという。このあたりからは刀剣も発掘されていて、あながちただの伝承とも思えないものがある。また内裏屋敷の少し上流には文殊堂があって、そこには義仲進軍の際か、義仲敗死後に力寿丸を伴った郎党達が祀ったという、義仲の守護仏・文殊菩薩が祀られている。力寿丸はその後家を再興させたと伝えるが、郎党の一部は鬼無里に土着し、今もその後裔を名乗る人々が住む。この他、鬼無里には義仲にまつわる伝説が数多くある。信濃という義仲挙兵の地であることからすれば当然といえば当然なのだが、問題なのは平氏との関係である。義仲の北陸道進出の足がかりとなったのが、越後にいた城長茂(じょうながしげ)との戦だったが、この城氏は紅葉を退治した平維茂の子孫である。

源氏と山の民の関係、そして紅葉
 こうなると、紅葉伝説はこのこととも全く無関係ではないだろう。平維茂を破った源氏方の子孫が今に残る村で、平維茂が退治した鬼女を貴女と崇めるのは自然なことでもあるだろうが、それ以前に鬼無里には源氏との関係があったかもしれない。
 先に、鉱業利権を得るため、経基の子・満仲は山の民に近づいたという経緯があることを述べたが、そうした関係の一つが鬼無里にもあった可能性もある。ただ、満仲は後に山の民を裏切り、それがために妖怪達の恨みを買ったという話もあって、満仲が戸隠で鬼女退治をしたという注目すべき話が太平記にもある。もしかすると紅葉を討ったのは経基の子・満仲であるかもしれない(ちなみに経基は紅葉が討たれる前に没している)。こうなってくると収拾がつかなくなってくるが、結局この地の山の民も源氏に裏切られたことを示すものだろう。満仲の子・頼光も鬼退治と土蜘蛛退治で名を馳せた人物である。源氏は鬼・妖魔退治の一族なのだ。
 だが、時に応じて協力というか、互いに利用する関係にはあったかと思われる。その結び目を象徴するものが経基の紅葉寵愛であり、その後の義仲伝承ではないだろうか。

結 赤き紅葉の伝承
 そして、その鉱業利権という源氏とこの地の山の民の結びつきを示すのが、内裏屋敷の鉄である。この鉄が紅葉伝説を異様な政治的・歴史的現実味を感じさせる最大の原因となっている。紅葉が鬼無里に文化を伝えたのなら、この鉄は農機具や狩猟の道具の製作の跡とも考えられる。しかし、紅葉が郎党とともに激戦の末討ち取られたことから考えれば、武器製作の跡と考えるのが自然である。激戦の伝承があり、実際に製鉄の跡があるなら、それは本当にその時代に何らかの戦があったということだろう。このことが、紅葉伝説をただのおとぎ話ではない、血生臭い現実味を帯びたものにしている。そして、その戦いとは、皇朝による土着民征伐であったろう。と、同時に、その信仰である女性主導の太古的呪術宗教抹殺の戦いでもあった。
 これまで紅葉伝説に対し様々なアプローチを試みたが、このあたりをもって結論としたい。
 それにしても紅葉伝説というのは、単純には論じられない多くの要素を含む、何と広く深い伝承なのであろうか。紅葉という名は、鬼の顔を現す赤、怒りという感情の赤、戦で流れる血の赤、溶けた鉄と鉄錆の赤、女性という性別を示す赤、巫女の袴を彩る赤、女性が真実巫女として輝いた時代を偲ばせる太陽の赤、そしてその落日の赤── そうしたものが一時に爆発し紅葉のごとく赤色に燃えて、そして紅葉のごとく一時で散り土に埋もれた── ということを象徴するもののように思える。千年の時を経た現在も、山の神は戸隠や鬼無里の山々を赤く染めさせる。かの紅葉を偲ぶかのように── 



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