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時雨を急ぐ紅葉狩、時雨を急ぐ紅葉狩、深き山路を尋ねん
──謡曲「紅葉狩」冒頭



紅葉宮御祭神御由緒
序 戸隠山の鬼女紅葉
謡曲「紅葉狩」
鬼女紅葉伝説
 ・第六天魔王の申し子・呉葉
 ・京での栄華と転落
 ・水無瀬の民との交流、断ち難き京への思い
 ・平維茂 紅葉との死闘
 ・お万のその後
紅葉伝説考
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 長野県戸隠村。長野県北中部、新潟県にもほど近いこの場所は、古来より様々な神話・伝説に彩られた、信仰の地であった。そもそも「戸隠」の由来は、天照大神の岩戸隠れにおいて、天手力雄命(アメノタヂカオノミコト)が岩戸を取り除いた際、その岩戸が地上に降ちてきて山となったのにちなむという。中世には戸隠山とその周辺は山岳信仰のメッカとなり、修験道が栄えた。近隣の飯綱(いずな)山は、妖術「飯綱の法」で有名な飯綱信仰発祥の地でもある。それらを受けて、後には忍者の隠れ里ともなった。
 そうした戸隠の伝説・歴史の中でも、現在ではさほどの知名度はないが、かなり古い部類に入るのが鬼女「紅葉」の伝説だ。謡曲「紅葉狩」にうたわれ、歌舞伎の題材ともなった紅葉伝説。まずはその謡曲のあらすじから見てみよう。



 秋も深まった戸隠山。そこに余五将軍平維茂(たいらのこれもち。平安中期の武将で、陸奥守、鎮守府将軍などを歴任。陸奥の豪族・藤原師種や山城の鬼女を討つなどの功績があった。桓武平氏・平貞盛の15番目の養子であることから、「余五(よご)」と呼ばれた)が鹿狩りにやってきた。すると、人里離れた山中に、どこぞの高貴な姫君達か奥方達が、幕を張って紅葉狩の酒宴を開いていた。
 不審に思った維茂だったが、酒宴の妨げにならぬよう、馬を下りた。すると、酒宴を開いていた貴婦人方に声を掛けられ、酒宴に招き入れられる。維茂は勧めらるまま酒を飲み、美しい舞に打ち興じているうち、酔いが回って寝てしまう。やがて貴婦人方は忽然と姿を消してしまった。
 寝ている維茂の夢には、八幡大菩薩が現れ警告する。驚いて目を覚ますと、貴婦人は鬼となって維茂に襲いかかって来た。維茂は少しも慌てず、八幡大菩薩を念じて刀を抜き、鬼女を退治したのだった。



 これが、室町後期の能役者・能作者、観世信光(かんぜのぶみつ)が書いた(世阿弥作という説もある)、謡曲「紅葉狩」のあらすじである。なお、各地に伝わる歌舞伎や神楽の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛を加えているものもある。
 さて、信光は、この話を書くにあたって、戸隠に伝わる鬼女伝説に取材したという。次に、その伝説の概要を見てみよう。


─鬼女紅葉伝説─

第六天魔王の申し子・呉葉
 平安時代の貞観八(866)年、大納言伴善男(とものよしお)が、応天門の変で失脚し、伊豆に流された。伴善男は、古代軍事豪族大伴氏の末裔であり、一族には万葉集の編纂者といわれる大伴家持もいる。やがて大赦により流刑を解かれ流浪の身となった伴善男は、奥州会津へたどり着きそこに根を下ろしたという。大伴氏は家持の時代に至っても軍事を担い、対蝦夷の関係で陸奥と縁が深かったので、その縁を頼ったのであろうか。
 その子孫である伴笹丸(とものささまる)は、菊世(きくよ)という妻とともに会津で細々と暮らしていたが、この夫婦には子がなかった。そこで様々な神仏に祈った挙句、第六天魔王に祈願する。第六天魔王とは他化自在天(タケジザイテン)とも呼ばれ、起源はヒンドゥー教のシヴァ神ともいうが、いずれ仏教における欲望と快楽を司る悪魔である。その祈願の結果、一人の娘を授かった。承平七(937)年秋のことという。
 笹丸はこの娘を呉葉(くれは)と名付けて育てた。呉葉は生まれつき利発で、長ずるに従って多方面で頭角を現した。筆から和歌、琴と、文にも芸にも秀でており、その美貌とともに近隣の評判となった。そうなれば当然、思いを寄せる者も多くなる。地元の豪農の息子・源吉も紅葉を見初め、言い寄るが、全く相手にされず、それがために病気になった。源吉の両親は金にものをいわせ強引に呉葉と源吉の縁組を迫ろうと、笹丸に大金を渡そうとする。しかし、呉葉はこの息子をよくは思っておらず、縁組も不本意だった。
 さて親の笹丸の方は笹丸の方で、落ちぶれても大伴の末裔ゆえか、都で立身出世しようという望みがあった。それで前々から才色兼備の呉葉を都の貴族に嫁がせようと思っていた。その旨を呉葉に伝えると、呉葉は第六天魔王により「一人両身」の法を授かって自らの分身を嫁がせる。大金だけをまんまと手にし、笹丸親子は京へ旅立ったという。呉葉十四歳のときであった。なお、分身の方は、しばらくして、源吉の家の庭の木の蜘蛛の巣を払ったとき、その蜘蛛の巣が巨大化して雲となり、そのまま糸の雲に乗って飛び去ってしまったという。源吉は呉葉の家に急いだが、既にもぬけの殻だった。

京での栄華と転落
 都に上り、笹丸は伍輔(ごすけ)、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。そして親子は四条通りで髪飾りや履物を扱う店を営む。また紅葉は店の仕事の合間に、近所の娘に琴を教えていた。紅葉の美貌と琴の腕がものをいい、店は繁盛し、琴弾きの弟子入りも増えていった。やがて、夜涼みのため四条にやって来た源経基(みなもとのつねもと)の奥方にその琴の腕を買われ、呉葉はその下で仕えることになった。天暦七(953)年六月末のことである。なお、源経基は清和天皇の孫であり、いわゆる清和源氏の祖で、平将門の反乱を訴えたり、藤原純友の乱を鎮圧するなどといった功績がある。
 経基の下でも、多才さは発揮され、主人経基の耳に入ることになる。そうして紅葉は経基の寵愛を受けた。経基の寵愛はそれはそれは厚いものであったという。しかし、その頃から奥方が正体不明の病に苦しむようになった。しかも、その苦しみは丑三つ時に最も烈しくなり、その時間になると夜な夜な鬼が現れて責め立てるというものであった。そこで比叡山の僧侶に相談し、病気平癒の加持祈祷を行うと、これは何か魔物の邪術のせいであるとのことであった。そして僧が護符を渡して言うには、それを奥方の看病に当たる者の襟にかければ魔物は退散する、だが拒む者があれば注意せよ、特に紅葉には、とのことだった。
 その僧の言葉を伝え聞いた経基は紅葉が怪しいなどと馬鹿馬鹿しいと退けたが、時折紅葉の眼が妖しく光ることを思い起こし、もしやと思い護符を配ることにする。皆喜んで護符を受け取ったが、紅葉だけが頑なに拒んだ。それを経基が問い詰めると、紅葉は自分が奥方に呪詛をかけたことを白状したのだった。そうして、紅葉は捕らえられることになった。捕まった紅葉は本来死罪となるところだったが、既に経基の子を身籠っており、また一度寵愛した女を殺したとあっては世間の笑いものになるため、どこかへ追放して隠してしまおうと思った。それで隠すことに縁のあるということで、戸隠の山中に流すことにした。こうして紅葉は親子共々流罪となった。天暦十(956)年、紅葉十九歳のときのことであった。

水無瀬の民との交流、断ち難き京への思い
 紅葉親子は人里離れた戸隠の山中に放置されたが、通りかかった村人の助けにより、水無瀬(みなせ。現在の戸隠村の隣村鬼無里(きなさ)村)の村にたどり着いた。村の人々は、哀れな身の上の紅葉に同情し、また都人ということで尊敬の念をもっても迎えた。紅葉のために収穫物を捧げたり、内裏屋敷という館を建てたりもした。紅葉の方でも、村人の優しさに打たれ、あるいはその教養を授け、あるいはその芸を授けして村人の面倒をみた。また、得意の呪術や占いによって村人を助けたこともあった。紅葉の持っていた檜扇は傷や病を癒す力があって、呪医のような役目をも担ったという。こうして紅葉は水無瀬の人々と平和に暮らしたという。しかし、京への思いも消えた訳ではなかった。
 やがて、経基の子が生まれた。経基の一字を取って経若丸(つねわかまる)と名付けた。そうなってくると、京への思いもますます断ち難い。内裏屋敷の東を東京(ひがしきょう)、西を西京(にしきょう)などと呼んだのをはじめ、清水、二条、三条、四条、五条など、今も鬼無里に残る地名を付けて京を偲んだ。また東京には加茂神社、西京には春日神社を建てたりした。あるいは村人に京の文化を伝えもした。
 そうしたところに、近隣の村々を荒らし回る鬼武(おにたけ)率いる盗賊の一団が、紅葉の話を噂に聞いて興味本位でやって来た。先年敗れた平将門の元郎党という彼らは何か脅し取るかさもなくば紅葉を部下に引き入れようと思ったが、逆に紅葉の呪術の前に圧倒され、紅葉の配下となった。ここに、紅葉の再上洛の夢は現実味を帯びてくる。彼らは夜になると離れた村の富豪の家を襲って京へ上る資金を稼いだのであった。もっとも水無瀬の村人には盗品を分け与えたりしたので、問題になることはなかったが、村にいては何かと差し障りがあったので、近くの荒倉山に拠点を移した。そこで豪奢な暮らしをしもしたという。
 そうした盗賊団の噂を聞きつけ、新たに加わる者も増えてきた。その中にはお万(まん)という鬼もいて、二十三、四の年うら若き女ではあったけれども、怪力無双、性質凶暴で山に暮らしていたが、力において並ぶ者なく、紅葉の側近ともなった。お万は一夜のうちに鳥のごとく数十里を駆ける俊足の持ち主でもあったという。

平維茂 紅葉との死闘
 しかし、悪事千里を走るとはよく言ったもの、やがて荒倉山に鬼女が住むという噂が近隣に広まった。それを苦にした父伍輔は死去してしまう。噂は鬼女が都を狙っているとまでに膨れ上がり、ついには国司によって朝廷に上奏された。これを受けた時の帝冷泉天皇は、平維茂に紅葉退治の勅命を下したのであった。安和二(969)年のことである。  平維茂は、平将門を討った平貞盛の養子であった。つまり、先に紅葉の配下になった将門の元郎党鬼武らにとっては主君を討った許し難い仇敵の養子であって、彼らはますますいきり立ち、紅葉とともに、戦いに備えたという。これを聞いた紅葉の母花田は自害した。
 勅命を受けた維茂は、軍勢を整え信濃に向かい、上田に入った。まずは配下を紅葉の元へ先遣隊として向かわせたが、紅葉の術に翻弄され、暴風と火の雨に撃退されてしまう。さらにその勝利の宴を開いているところを後ろから攻めようとするが、氷玉、火玉、洪水の術によって返り討ちにあった。
 そこで維茂は、配下金剛太郎の勧めによって、神武天皇が太陽を背にし北に向かって長脛彦を討伐した故事に基き、上田の天台寺院北向観音に祈願し、北上して紅葉を討とうと、十七日間参籠に入った。その参籠の最後の日の夜、白髪の老僧が夢に現れ、維茂の手を取り白雲に乗せ、紅葉の立て籠もる岩屋を示して「降魔の利剣」(不動明王などが持っている魔障降伏の剣)を授けた。そして、目が覚めてみると、実際にその剣を手にしていた。
 こうして意気付いた維茂一行は、紅葉のいる戸隠へと向かう。しかし、地形が複雑で紅葉の根城がよく分からない。そこで維茂は八幡大菩薩に祈願し一本の矢を放つと、遠くへ飛んでいった。その矢の飛んだ方向へ向かうと、紅葉達の立て籠もる荒倉山の麓へ出た。
 維茂一行は荒倉山にたどり着き、三度紅葉との戦に望んだ。紅葉は笑いながら術を使おうとするが、一向に効き目なく、それどころか体が震え目がくらむ。北向観音の霊力を得た維茂には、もはや紅葉の呪術も効かないのであった。危機を感じた紅葉は鬼武達に逃げるよう勧めるが、彼らは潔く散ることを望み、せめて一矢報いんと撃って出て、維茂らに討ち取られた。術が効かないことに焦る紅葉。そこに維茂は降魔の利剣に白扇をつけ矢羽とし、大弓につがえて放った。矢は見事紅葉の右肩に命中した。怒り狂った紅葉は鬼の形相となり、雲に乗って空に舞い上がり炎を吐いて抵抗した。
 しかしそのとき、突如黄金の光が空を覆い、紅葉を照らし出した。力を失った紅葉は地に落ちる。そこをすかさず金剛太郎が渾身の力を込めて紅葉の胴腹をえぐる。紅葉は金剛太郎の腕をつかみ荒れ狂ったが、維茂とどめの一太刀、紅葉の首を刎ねた。が、紅葉の首は空を舞い上がりいずこかへ消えてしまった。維茂は紅葉の両腕を首桶に収めて、穴深く、埋めたという。ここにとうとう紅葉は討ち取られたのである。安和二年十月二十五日、紅葉三十三歳のことであった。
 こうして勅命により鬼女を退治した維茂ではあったが、紅葉を慕っていた村人の気持ちを汲み、また維茂自身も紅葉を哀れに思って、里に塚を立て紅葉の供養とした。

お万のその後
 紅葉の死とともに、その配下も大方は討ち取られ、生き延びた者達も皆逃げた。紅葉の息子も戦いの最中祖母を追って自害した。鬼のお万も岩を投げつけるなどして奮戦し、手下ともに逃げ延びたが、紅葉の敗北を知って諦め、自害する決心をする。しかしこれまでの罪を悔いこの世の最後にその罪を仏の前で懺悔したいと思い立つ。そして戸隠の寺にたどり着き涙を流して仏法への帰依を懇願した。
 哀れに思った住職はお万を剃髪し得度させた。感涙にむせび泣いたお万は自害して最期を遂げる。住職は維茂にお万の罪を許してやってくれと乞い、維茂の許可を得て剃髪した際のお万の髪を安置して弔った。この髪は現在も伝わっており、その髪は伸ばせば江戸まで届くといわれた。あるいはその毛はお万の陰毛であるとも伝えられる。



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