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土蜘蛛紀行 大和編
其之参、大神神社
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狭山田女:ここが大神(おおみわ)神社の入口だね。
大山田女:はい。生根神社とのつながりでお参りに来ましたが、実はこの神社も、土蜘蛛と全く無関係という訳でもありません。参道が長いので、歩きながらお話ししましょう。
狭山田女:そうだね。そうしようか。

大山田女:土蜘蛛御由緒のところでお話しましたが、日本書紀に、日本武尊が東国征伐で捕虜にした蝦夷を、西日本の諸国に分けて住ませ、彼らが「佐伯部(サエキベ)」の先祖になったと、書かれています。
狭山田女:うん。で、常陸国風土記では、土蜘蛛のことを「佐伯」とも書いているんだよね。
大山田女:はい。この捕虜になった蝦夷達は、はじめ、伊勢の神宮に献上されました。これは、日本武尊が、東国征伐にあたって、神宮を祭る叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に、三種の神器の一つ、草薙剣を授かったことへの御礼かもしれません。それは良いのですが、蝦夷達は、夜昼となくやかましく騒いで、礼のない振る舞いだったので、倭姫命は蝦夷達を神宮に近づけてはいけない、と言って、朝廷に献上しました。朝廷では、蝦夷達を御諸山(みもろのやま)の近くに置きますが、この御諸山というのは、大神神社の神体山である、三輪山(みわやま)のことなのです。
狭山田女:へぇ~、じゃあその蝦夷達はこの辺にいたんだね。
大山田女:しかし蝦夷達は、ここでも神の山である御諸山の木を伐り、村里で喚き散らして、人民を脅かしました。そこで十二代景行天皇は、彼らは凶暴なので都の近くには住ませられないから、その願い通りに遠い国に住ませよ、と命令しました。
狭山田女:そうやって「佐伯部」の先祖になったんだ。
大山田女:さらに、三十代敏達天皇のときには、蝦夷数千人が辺境を荒らすので、その首領・綾粕(アヤカス)が天皇の前に連れてこられました。天皇は、景行天皇の治世に討伐され、殺すものは殺し、許す者は許したが、自分も前例に習って、首領を殺そうと思う、と告げます。そこで綾粕は恐れ畏まって、泊瀬川(はつせがわ)、これは三輪山の近くを流れる大和川の上流部の事ですが、その川の中に入って水をすすって、末代まで天皇に従い、背いたときは天地の神々と天皇の霊に根絶やしにされるでしょうと、と言って三輪山に向かって誓うのです。
狭山田女:なるほど。ここでも蝦夷と三輪山が関係してるんだ。
大山田女:これは景行天皇も敏達天皇も三輪山の近くに都を置き、三輪の神が「天地の神々と天皇の霊」を祭る山だったからと解釈されますが、逆に三輪山が蝦夷にとっても重要な神だったから、という説もあります。
狭山田女:全く逆の話だね。
大山田女:生根神社でも話した通り、大神神社は山そのものを御神体として、本殿を持たない、古い形式の信仰を伝えています。このように非常に自然崇拝色が強い為、三輪山は朝廷・王権の成立前から聖地として崇められていたと思われます。だから、王権成立以前から、広く崇められており、蝦夷にとっても重要な神だったのではないか、ということですね。
狭山田女:う~ん、なるほど……まあ、大和には、神武天皇が入る前から、土蜘蛛とか長脛彦さんとかいた訳だもんね。彼らの神でもあったってことかな。
大山田女:そういう事ですね。先程の忍阪などは三輪にも近いですから、あそこの土蜘蛛も三輪山の神を信仰していた可能性はかなりありそうです。もちろん、大和王権にとっても重要な神だったのは間違いありませんが。でも、十代崇神天皇の治世には、三輪の大物主神による疫病が流行し、天皇を悩ませます。そして神託により、大物主神の子に祭らせることで、ようやく疫病が治まった、と記紀に書かれています。
狭山田女:まるで祟りだね。
大山田女:よくそのように言われますね。そもそも大物主神は、生根神社でも話した通り、出雲と深い関係のある神です。王権にとって重要な神には違いないけれど、恐ろしいから丁重に祭った、という感じですね。その恐怖は、王権確立時に討伐した人々であり、彼らの祟りを恐れて、彼らの神を祭り鎮めた……というようにも言われています。ちなみに大物主神の「物」とは「霊」を意味していて、「大いなる霊の主」という意味になります。
狭山田女:何だか一番尊い神様のような感じだね。「怨霊の主」のようにも思えるけど……。
大山田女:「物」を「怨霊」と解釈したら、そうなりますね。実際「祟り」を成している訳ですから、そのようにも見られている訳です。ところで崇神天皇のときには、それまで宮中に祭っていた皇祖神・天照大神を、恐れ多いからということで、初めて宮中の外に祭るようになりました。その最初の場所が、三輪山の麓なのです。それから様々な場所を巡り、伊勢に祭ったのが、先程話した倭姫命です。この三輪山の麓に祭った話が、日本書紀では大物主神の「祟り」の直前にあるのです。
狭山田女:それは謎めいてるね。三輪山は天照大神の山でもあるんだ。
大山田女:しかも、天照大神を宮中の外に祭った理由も、恐れ多くて不安だという、「祟り」的なものです。その後に大物主神が現れる。これは無関係ではないでしょうね。宮中にはその後も別の神々が祭られ続けるのですが、では天照大神とは何なのか、という疑問が湧いてくるお話です。
狭山田女:素直に考えると、天照大神=大物主神だね。
大山田女:大国主命が大物主神に出会う場面では、「海を照らし空中を浮かんで来た」と書かれていますけど、これは天照大神の名前や太陽神という属性とも、共通しています。
狭山田女:もし天照大神=大物主神だったら、天皇のご先祖様で、しかも王権に討たれた人々の怨霊、ということになってよく分からないね。でも、怨霊だって思われたのが、元々討たれた人々にとって重要だった神だから、という理由だったら、王権の人々・反王権の人々共通の神様だってことかな。
大山田女:討たれた人々や、討たれた人々の神を、討った側が祭ることで、討たれた人々の生き残りや子孫を上手く統治する、という手法も、よく指摘されていますしね。でもそれだけでなく、今まで述べてきた話から、そもそも天皇や王権にとっても純粋に崇拝の対象だった、ということも十分に考えられます。
狭山田女:それだと蝦夷の首領が天皇に服従を誓う神としてはぴったりだなあ。ま、誓ったっていっても、自主的にっていうよりは、生きるために選んだ、受け入れられる選択肢、って感じだけど。でも、それにしても、天皇が自分のご先祖様を宮中の外に祭って、他の神様を宮中で祭り続けた、っていうのは妙だよね。
大山田女:そうですね、これは王権のルーツに迫る謎ですね。十代崇神天皇は「歴史上最初の天皇」と学界から目されている天皇でもありますし。「佐伯部」の先祖となる、捕虜となった蝦夷が、一旦伊勢に献上されてから三輪山に移されているのも、こうしたことと関係があるのかもしれませんね。
狭山田女:う~んなるほど、大神神社が土蜘蛛とも無関係じゃなさそう、ってのがよく分かったよ。
大山田女:また、崇神天皇や景行天皇の時代のお話を色々としましたが、十代崇神天皇から十二代景行天皇までの三代は、皆この三輪山の近くに都を置いています。これらの天皇の治世というのは、記紀風土記で土蜘蛛が非常に頻繁に登場する時代です。つまり、土蜘蛛が登場する時代、土蜘蛛を討つ側だった「中央」の聖地でもありますので、そういう意味でも関係があります。

狭山田女:あっ、いよいよ拝殿かな。入口に、柱の間に縄を渡してあるね。何だか懐かしい感じがするよ。
大山田女:あれは鳥居の古い形ではないかとも言われいます。生根神社の拝殿の前にもありましたが、それも大神神社と共通している点ですね。

狭山田女:わあ、立派な御神木だあ。
大山田女:こちらは「巳(み)の神杉(かみすぎ)」と呼ばれるもので、根元に「巳さん」つまり蛇が棲んでいる杉です。
狭山田女:だから「巳さん」の好物の卵が供えてあるのかあ。
大山田女:しかも記紀では、三輪の神様は蛇の形をしていると書かれていて、蛇の神と人間の娘との間に子が生まれる神話が細かく書かれています。このタイプの神話・民話は日本中に伝わっており、アイヌや沖縄の人々の間にまであります。これも大物主神が、王権成立以前から信じられた神で、蝦夷にとっても重要な神だったと言われる理由の一つですね。
狭山田女:う~ん、三輪の神様は、凄い神様なんだね。

狭山田女:これが拝殿だね。
大山田女:はい。お参りして行きましょう。既に何度もお話ししましたが、この拝殿の後ろに本殿はなく、三輪山になっていて、足を踏み入れてはいけない、いわゆる「禁足地」です。

大山田女:では次は、拝殿の左から、こちらに行きましょう。結構、長い道のりですよ。
狭山田女:うん……て、森の中になってきたよ。このあたりは、もう三輪山の一部かな。
大山田女:はい。ですが、ずうっと、境内が続いています。
狭山田女:もの凄く広い境内だね。まあ、三輪山全部が境内なら、そうだろうねえ……。

大山田女:さあ、着きましたよ。
狭山田女:森の中に、神社があるね。
大山田女:こちらは狭井(さい)神社、正式には狭井坐大神荒魂(さいにますおおみわあらみたま)神社です。大神神社で「和魂(にぎみたま)」を祭り、この神社では「荒魂(あらみたま)」を祭っています。

狭山田女:大物主神の荒魂って、ち、ちょっと恐ろしいね。あたし達の神様・ヨドヒメ様みたいに、怒ると怖い神様だもんね……。
大山田女:「荒魂」とはその神様の「祟る」ような荒々しい面ですが、大物主神は、ただでさえ疫病を流行らせて、天皇を恐れおののかせる神様ですからね。でも、それだけにきちんとお祭りすれば、威力のある神霊とされています。「静」に対する「動」の面ですからね。この案内にも、災いがあるときに霊験あらたかだ、というようなことが書いてあります。病気平癒の神様とも書いてありますが、これは崇神天皇の時代からずっとそうなのかもしれませんね。
狭山田女:うん。しっかりお参りしていこう。

大山田女:今の案内にもありましたけど、ここから湧き出す御神水を頂けます。この水は「くすり水」と呼ばれて古から信仰されているものです。そもそも「狭井」というのは神聖な井戸や泉を表わす言葉ですが、まさにこれが「狭井」ですね。
狭山田女:うん。ありがたいお水、しっかり頂いてこう。ん?あっちは何だろう?

狭山田女:ここは?道が山の中に続いてるけど……これを登っていくと、三輪山の中にに入れるのかな?
大山田女:実は禁足地の三輪山も、ここからだけは登る事が許されています。狭井神社で受付をして、御祓いを受ければ登らせて頂けますよ。ただし、神聖な場所ですので、山を汚したり、写真を撮ったり、火を使ったりしてはいけません。
狭山田女:今も聖地として守られてるんだね。
大山田女:この山の中には、神の宿る石、磐座(いわくら)がいくつかあります。まさに古くからの信仰を伝えるものですね。この点も生根神社と同じです。
狭山田女:そうだね。よし!じゃあ御祓いを受けて登って行こう!


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大山田女:大神神社の境内には、他にも様々な信仰の場所がありますし、周辺には様々な古代遺跡が山のようにあります。大神神社の場所は、左の地図を参照して下さいね。



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