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土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─ヘ、柏原
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狭山田女:ううう、寒~い。とうとう雪が積もって来ちゃったよ。ここも高原みたいだけど。
大山田女:禰疑野(ねぎの)神社の南約六キロ、竹田市荻町(おぎまち)柏原(かしわばる)です。禰疑野神社や蜘蛛塚、七ツ森古墳群のある菅生台地と同じく、阿蘇外輪山東麓の高原ですが、こちらは荻台地と呼ばれています。

狭山田女:菅生台地とはまた違うのかな?
大山田女:菅生台地との間には深い谷があって、地形的に分断されています。そのため、歴史的にも別の地域として歩んで来たようですね。菅生は戦後竹田市が発足した時点で市域に含まれていた一方、荻は「平成の大合併」で竹田市となっている点からも、その事が分かります。

狭山田女:なるほど。隣だけど、深い谷のせいで別の地域になってるんだ。
大山田女:実は荻台地の中央にもやはり深い谷があって、その南側を柏原台地とも言うようです。ただ菅生台地と荻台地を分けるほど大きな谷ではないために、地域的な結び付きが強かったようですね。それでも、詳細に見れば別地域であったようで、昭和三十年に合併して荻町となるまで、荻と柏原は別の村でした。
狭山田女:でも間に谷があって分断されてはいても、竹田の西部は標高が高い割に、随分平地が多いんだね。まさに高原地帯だ。
大山田女:そうですね。荻台地も菅生台地と同じように、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が沢山あります。特に弥生時代の住居跡は非常に多く、国内の生産手段の主流が水田稲作に移行し切ってしまう以前は、豊かな土地だったのでしょう。この点は菅生台地と全く同じで、同一の高原文化圏だったと言えるでしょうね。
狭山田女:すると、菅生と同じで、古代には文化の中心地だったけど、時代が下るとそうじゃなくなっていくのかな。
大山田女:はい。深い谷底を流れており、大量の水を得る事が難しいという事情は、菅生と変わりません。明治になっても、このあたりでは水田稲作が難しく、畑作が中心だったそうですからね。大正時代に、地元の有力者が破産するほど私財を投げ打って、上流の水を採取する水路を作り、ようやく大々的な稲作が可能になったくらいです。
狭山田女:むむむ……大変な土地だったんだね。でもそういう土地だったからこそ、水田稲作の時代が来るまでは、栄えた場所だったんだ。
大山田女:豊後国風土記にも、柏原(かしわばら)郷として登場しますからね。風土記の直入郡の記事の半分は、柏原郷のものです。そして残りの半分は、既に見た宮処野神社がある球覃(くたみ)郷のもの。柏原は古代の直入郡のニ大地域の一つだった訳ですね。ちなみに古代の柏原郷はかなり広い地域だったらしく、禰疑野も柏原郷に含まれています。ですから古代には、菅生台地と荻台地は同じ文化圏だったのですね。
狭山田女:すると荻台地も打サルさん達土蜘蛛の領域だったのかな。
大山田女:その可能性はあると思います。実際、日本書紀と風土記は、この土地の土蜘蛛に関する伝承を伝えています。景行天皇が、土蜘蛛を討とうとして「柏峡(かしわお)の大野」で宿泊したと書いてあるのです。その「柏峡」とは、現在の荻町柏原のこととされています。
狭山田女:「大野」ってのは「大きな野原」って意味だもんね。「柏峡」の「峡」は、峡谷を思わせるし。大きな野原と峡谷の両方で、一致してるね。
大山田女:そうですね。そして、この「柏峡の大野」には、細長く平べったい、大きな石がありました。景行天皇は神意を問うために祈り、「私が土蜘蛛を滅ぼす事が出来るなら、この石を踏んだら柏の葉のように舞い上がれ」と言って、その石を踏みました。すると、柏の葉が風に吹かれて舞い上がるように、石が空に舞い上がりました。日本書紀と風土記の話はほぼ全く同じですが、日本書紀ではそれゆえにその石の名を蹈石(ふみいし)といい、風土記ではそれゆえに蹶石野(ふみいしの)という地名になった、と書いています。蹈石や蹶石野の所在は、全く分かりませんが。
狭山田女:神意を問うための占いだね。前に見た城原(きばる)でやったのと同じだ。景行天皇は、この戦の最中に、二回も占いをしたって事だね。それに、風土記には、占いじゃないけど、宮処野あたりで水の神様を意志を尊重する話もあったね。
大山田女:ええ、これも何度か言いましたが、それだけ慎重な選択を迫られる、厳しい戦だったのでしょうね。よくよく神意を窺わないと、失敗しそうなものだったのです。実際、城原へ一度撤退しているくらいですからね。日本書紀の中でも、天皇自身がここまで執拗に神意を窺う戦は、そうそうありません。神功皇后が神懸りになったという熊襲・新羅征伐を思わせます。このときは、先に仲哀天皇が神意を重んぜず崩御しますが、景行天皇の奥豊後土蜘蛛征伐は、それに匹敵する重要かつ激しい戦だったのかもしれません。少なくとも、日本書紀の記述には、そういう意図がある事は確かですね。どうでもいいような話なら、このような執拗な書き方はしないでしょう。
狭山田女:書き残さなきゃいけない重要な話だったんだろうね。ところで、ここが土蜘蛛に関係した土地だってのは今の話で分かったけど、ここに土蜘蛛がいたって話じゃないね。宿泊して占いが出来るくらいだから、敵地の真っただ中って感じじゃない。菅生と一続きの地域だったって言っても、このへんはちょっと違うんじゃない。
大山田女:そうですね……行宮を設けた宮処野や一時撤退した城原と、戦の前に占いをした柏原の間に、最終決戦の地である禰疑野が位置するのも奇妙ですしね。禰疑野に入れずに北東の城原へ撤退し、そこから東の一度竹田盆地へ出て、南西の柏原へ回り込み、ここから北進して禰疑野に入ったという解釈もできそうですが……柏原あたりは打サルさん達の領域といっても、手薄だったのでしょうか。あるいは、元々は菅生と一続きの土地とは言っても、いざ大和王権と事を構えるに至り、菅生とは意見が合わず天皇方に恭順したのかもしれませんね。
狭山田女:菅生の人達だけが最後まで頑なに抵抗したって事か。前方後円墳まであるようなところだしなあ。打サルさん達のクニの「首都」だったのかもね、菅生のあたりは。
大山田女:もっとも、柏峡の大野や蹶石野が今の柏原なのかどうかは分かりませんけどね。風土記によると、蹶石野は柏原郷の中にあり、禰疑野は柏原郷の南にある、とあります。しかし禰疑野は今の柏原の真北に位置します。南北逆ですね。禰疑野が他の場所という事も考えにくいですし。
狭山田女:そうだね。仮に禰疑野神社を抜きにしても、蜘蛛塚や七ツ森古墳群もあるもんね。
大山田女:景行天皇が撤退したという城原との距離から言っても、菅生あたりが適切だと思いますしね。今の柏原という地名は、昔の「柏原郷」の名が残っただけなのかもしれません。そうでなければ、風土記の南北が筆写の際の誤記ということになるでしょう。
狭山田女:う~ん、何とも言えないね。
大山田女:柏峡の大野や蹶石野を別の場所とする説もあります。日本書紀では、景行天皇が柏峡の大野で祈った神々を「志我神(しがのかみ)・直入物部神(なおりのもののべのかみ)・直入中臣神(なおりのなかとみのかみ)」と非常に具体的に挙げており、これらの神々をを祭ったとされる神社もあります。
狭山田女:そんな話や神社が……蹶石野と関係ないはずがないね。
大山田女:そのうちの一つ、宮処野神社から山を越えて六キロ程北、由布市庄内町阿蘇野にある、直入中臣神を祭るという直入中臣神社などは、大きな石のご神体を祭っています。
狭山田女:あっ、つまりそれが景行天皇の踏んだ石って訳だ。
大山田女:ええ、ここが柏原と並ぶ有力候補地です。しかし景行天皇が祈った三神を祭るという三社は、それぞれ相当離れた位置にあるのですが、なぜ他の二社は蹶石野と全く関係ない場所にあるのか疑問ですね。直入物部神を祭るという竹田市直入町長湯の籾山(もみやま)神社は、宮処野神社の北東三キロくらい、直入中臣神社の南東五キロくらいですからまだ分からなくもないのですが、志我神を祭るという志賀若宮(しがわかみや)神社は豊後大野市の朝地町と緒方町にまたがって存在する志賀という土地にあります。以前見た緒方町の知田からは北に数キロの場所です。
狭山田女:青さん白さんが討たれたっていう、知田の近くか。確かに宮処野からは凄い距離があるなあ。
大山田女:直線距離で十八キロ程も離れています。また、もっと問題なのは、三社とも柏原郷とは全く関係のない位置にあるという事です。南北程度であれば誤記という事も有り得るでしょうが、郷が違うというような事はなかなかないでしょう。風土記は郷ごとに内容を記す書物ですからね。郷が違うとなると、誤字だけでは済まず、文章の構成自体が変わってしまいます。
狭山田女:こっちの候補も場所的に難しいんだね。でも、宮処野より北っていうのは、打サルさん達の本拠地の禰疑野より南にある柏原よりは、無理がないかもね。敵の攻撃を気にせず、占いに専念できるもんね。ところで、神様の名前に入ってる物部とか中臣のが気になるんだけど。大和の豪族の名前でしょ。
大山田女:大変有力で有名な中央の氏族ですね。どちらも神事を司る氏族であり、物部氏は軍事も司っていました。どちらも九州に拠点を持っています。景行天皇よりはずっと後の時代ですが、物部氏は九州北部の磐井の乱も鎮圧していますね。
狭山田女:九州北部で反乱鎮圧か。九州の土蜘蛛征伐とは関係ありそうだなあ。
大山田女:ちなみに志我神は、金印が出土した事で有名な福岡の志賀島にある、志賀海(しかのわたつみ)神社の神ではないかとも言われています。名前の通り海神で、海洋氏族の阿曇(あずみ)氏の氏神です。海との関連で、宮廷料理や軍事も担っています。肥前国風土記にある、五島列島の土蜘蛛を景行天皇の命で捕縛したのも阿曇氏です。白村江の戦いでは将軍も出しています。その本拠地が志賀島でした。
狭山田女:すると、景行天皇が蹶石野で祈った神様っていうのは、全部九州に関係した、神事か軍事に関わる氏族の神様って事か。この人達は、余程土蜘蛛討伐に貢献したのかな。天皇が豪族の氏神様に祈るなんて普通じゃないよね。
大山田女:これは天皇が何らかの形で、彼らに協力を要請したという事なのかもしれませんね。もしかしたら、これらの氏族が古くから入植した拠点があって、天皇が手強い土蜘蛛を相手に戦うにあたり、助力を求めたのかも。
狭山田女:氏族の名前の前に「直入」って土地の名前がついてたりするのは、土着してたっぽい感じもするしね。
大山田女:もしこれらの豪族が古くから入植した拠点があったとしたら、そこは大和王権の勢力圏の最前線だったかもしれません。辺境防備を兼ねて入植するというのは、古代からよく行われている事です。近代でも屯田兵というものがあったくらいですからね。軍事氏族がそれを担当するのも自然な事でしょう。三社の位置は大野川より北側で、大和王権側の拠点としても納得できます。直入中臣神社と籾山神社は反逆者の記述が全くない大分川流域。志賀についても大野川を挟んで知田と対峙するような位置です。一方、土蜘蛛の拠点は完全に大野川の流域。奥豊後の土蜘蛛討伐の頃には、大和王権がその勢力を徐々に大野川流域に伸ばそうとしていたのでしょう。奥豊後の土蜘蛛征伐とは、大和王権が大野川流域を獲得するための戦いだったのではないでしょうか。

狭山田女:確かにこれまで見て来たところ全てで、大野川がキーワードだったもんね。おっ、この看板には「柏原」って書いてある。
大山田女:ここにある「白水の滝」というのは、大野川本流の源流です。柏原という場所は、大野川の源流域に当たります。柏原が蹶石野かどうかはともかく、この旅の終着点にはふさわしい場所ですね。

狭山田女:うん、長い旅だったよ。別府湾や豊予海峡から始まって、ついに最果てまでたどりついたんだね。
大山田女:白水の滝の向こうは肥後国、熊本県。そして南に見えるあの祖母山(そぼさん)に連なる山々の向こうは、日向国、宮崎県です。ここは豊後国の一番の奥地なのです。


大きな地図で見る
狭山田女:いやあ、豊後国っていうのは、本当にあたし達の肥前国に負けず劣らず、土蜘蛛の伝承の多い土地だったね。それに五馬媛さんなんか特にそうだったけど、今も土地との結び付きが凄く強い感じがしたね。
大山田女:ええ……どんな形であれ、「土蜘蛛」について忘れずに言い伝えくれるのは、私達にとっては嬉しい事です。柏原への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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