邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)万邪神殿土蜘蛛宮土蜘蛛紀行 豊後編 其之五、直入
>ホ、七ツ森古墳群
土蜘蛛紀行一覧 



土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─ホ、七ツ森古墳群
 八束脛門へ戻る



狭山田女:菅生(すごう)台地って言うだけあって、禰疑野(ねぎの)のあたりはなだらかだね。でも標高は高いんだっけ。
大山田女:ええ、六百五十~五百メートルくらいあります。東の竹田市中心部からは七、八キロ程度の距離ですが、その竹田盆地の標高は二百五十メートル程。まさに高原地帯ですね。

狭山田女:打サルさん達は、この高原の土着の勢力だったんだね。
大山田女:はい。そして、この高原は、古くから人が住み、文化の栄えた土地でした。縄文時代から古墳時代にかけての集落跡が数多く発見されています。そのシンボルとも言えるのが、禰疑野神社の約二キロ東にある、この七ツ森古墳群です。

狭山田女:文化庁の案内板があるよ。さっきの蜘蛛塚とはかなり違うね。
大山田女:国指定史跡ですからね。以前は名の通り七基の古墳があったそうですが、現在残されているのは四基。そのうちの二基は前方後円墳で、これは九州最古級のものだそうです。
狭山田女:九州最古級!そんなに文化の進んだ場所だったんだ。

大山田女:そして、この七ツ森古墳群も、打サルさん達土蜘蛛のお墓とも言われています。こちらは円墳のA号墳ですね。
狭山田女:数や大きさからすると、さっきの蜘蛛塚よりはそれっぽいかな。三人のリーダーがいて、部下も沢山いて、景行天皇を手こずらせたって書いてある土蜘蛛のお墓にしちゃ、蜘蛛塚は小さ過ぎる気もする。

大山田女:ですが、前方後円墳というのは、大和王権文化の象徴ですからね。こちらはその前方後円墳のB号墳です。少し分かりにくいですが、手前の小さな土盛りが前方部、奥の大きな土盛りが後円部ですね。
狭山田女:前方部と後円部の間が削れちゃってるけど……まあ、分かるね。

大山田女:また、副葬品からも大和との結びつきが窺えるそうです。特に注目されているのは、九州では滅多に出土しない碧玉製釧(くしろ)。青メノウの腕輪です。そうした事もあってか、七ツ森古墳群は、土蜘蛛を討った天皇軍のものとも言われています。土蜘蛛との戦いで戦死した天皇側の武将か、土蜘蛛討伐後にこの地に留まって現地支配を担った将軍のものというところでしょうか。あるいは、天皇側に協力的だった土着民で、戦の後、天皇からこの地域の長として任命された人々かもしれません。何にせよ、あれだけ天皇に盾突き、最後は降伏すら許されなかったと書かれる打サルさん達が、大和式の前方後円墳に葬られるというのも、おかしな話ではあります。
狭山田女:なるほど……確かに前方後円墳が土蜘蛛のお墓ってのも妙な気もする。けど、円墳もあるんだよね。元々打サルさん達土蜘蛛のご先祖様の、この土地の長達のお墓があるところに、大和と関係した人達のお墓を造った、て事もあるのかな。
大山田女:そうですね、何であれ、古代のこの土地の首長達の墳墓である事には変わりありませんが。大和とのつながりを示すという碧玉製釧にしても、砕いて遺骸の周囲に撒き散らした状態で出土したそうで、この地域独自の葬送儀礼があった事を思わせるものだとか。すると、大和の文化とこの土地独自の文化が融合していた事になりますね。大和王権にこの地の支配を認められた、土着民の首長の墳墓だという事でしょうか。土蜘蛛征伐の後であれば、十分に考えられる事です。伝説を合わせて考えると、ちょっと不思議な古墳ですね。

狭山田女:こっちの古墳は割とはっきり前方後円墳だって分かるね。
大山田女:こちらはC号墳。手前が前方部、奥が後円部ですね。よく形が残っています。

狭山田女:これで四つ目。四基残ってるなら、これで全部だね。
大山田女:D号墳。こちらはA号墳と同じ円墳です。

狭山田女:古墳の側に、祠があるよ。
大山田女:ここは近くの神社の御旅所(おたびしょ)となっているそうなので、そのための祠でしょう。御旅所とは祭礼の際に御神輿などが一時留まる場所です。ちなみに、この七ツ森古墳群は、地元では有名な彼岸花の名所で、時期になると遠方からも多くの見物客が訪れるそうです。

狭山田女:古墳に彼岸花……まあ、お墓だからね。ふさわしいっちゃ、ふさわしいか。とりあえず、禰疑野、菅生台地のあたりが、古代にはかなり栄えてた場所だっていうのは、よく分かったよ。打サルさん達が、凄く手強くて、景行天皇が手こずった、て書かれてるのもよく分かる。実際、このあたりには大きな勢力があったんだね。
大山田女:打サルさん達との戦いは、古代の記録上「土蜘蛛最大の戦い」とも呼ぶべきものですからね。今もこの地形を利用して高原野菜の栽培が盛んに行われていますが、この古墳群が造られた時代にも、大いに農耕が行われた事でしょう。そうした経済力がなければ、このような古墳群は築造できませんからね。しかしながら、蜘蛛塚で見たように、川は深い谷底を流れていて、大量の水を必要とする水田稲作には向いていない土地です。禰疑野神社のあたりで吹雪になりかけたことからも分かるように、稲作をするには気候が冷涼過ぎるという事もあるでしょう。そのため、古墳時代以降は、文化の中心が次第に竹田盆地へと移っていったようですね。
狭山田女:日本中、大体どこでもそうだよね。古い時代は、獣や木の実が得やすい山の方に住んでても、稲作するようになると、平地へ降りていくもんね。
大山田女:はい。ただその移動の時期は、縄文時代から弥生時代にかけてが一般的です。このような高地に古墳文化が栄えるというのは、割と珍しい事でしょう。外輪山を越えた、阿蘇のカルデラなどもそうですが。このあたりは、標高の高い場所に平地が多いために、古墳時代になっても水田を主としない、古い文化が残り続けたのかもしれません。一方で、前方後円墳のような、中央の先進文化も入って来ていた訳です。新旧の文化が混在する、少し特殊な地域だったのでしょうね。
狭山田女:独特な葬送儀礼があったなんて事も言ってたもんね。
大山田女:その新旧交雑の特殊性が、「土蜘蛛」と呼ばれながらも、天皇軍が手こずる程恐ろしく強い、という例外的な伝承が生まれた背景かもしれませんね。高地ゆえに非水田主体の古い文化を保ったために、異文化の部族として「土蜘蛛」と呼ばれながら、平地の多さゆえに高い経済力と軍事力を持ち、一部先進的な文化をも取り込んでもいたために、大和王権になかなか従う事なく頑強に抵抗した……それが打サルさん達の伝承の真相かも知れませんね。


大きな地図で見る
狭山田女:山と谷に囲まれてて、地理的にも攻めにくい場所だしね。数ある「土蜘蛛」の伝承の中で、何で打サルさん達だけがそんなに「強かった」って書かれてるのか、ちょっと分かった気がする。
大山田女:この菅生台地こそが、打サルさん達の「強さの秘密」なのでしょうね。
狭山田女:七ツ森古墳群への行き方は、左の地図を参照してね。



ニ、蜘蛛塚へ ヘ、柏原へ 道先案内へ戻る