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タンオッカイポ
エントラ
ララッカンポ
ラールイパ
オイカルサル
テケチンパ
コッネイコッネイ
エロシキ
ねえそこのキミ
わたしについて来て
つやつやの肉の小丘を
撫でさすって
葛の草やぶを
かき分けて
下の谷間に
降りてきてよ
──パウチカムイの歌った歌(知里真志保編訳「えぞおばけ列伝」より
左列アイヌ語 右列日本語訳 筆者訳文一部改変)



パウチカムイチセ御祭神御由緒
アイヌ神話の淫魔パウチ
恐怖のパウチカラペ サイェヘ(淫乱の群れ)
パウチは邪神か妖精か
氷の国のローレライ
巫女神パウチカムイ
パウチと踊れ 古の調べとともに
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アイヌ神話の淫魔パウチ 次の項へ 最初に戻る
 パウチカムイとは、アイヌ民族の神話・伝説の中で語られる淫魔(人に直接淫らなことをしかけたり、人に淫らな感情を起こさせる魔。女の姿で男の精気を吸い取る西洋の悪魔サキュバスや、インキュバス(その逆)などが有名)である。単にパウチとも呼ばれる。それは威力ある神霊と尊崇されつつも、一方で恐れ忌み嫌われた邪霊──即ち邪神であったからだ。

 アイヌの人々は、浮気をしてしまうのもこのパウチが憑いたためと考えた。さらにひどくなると、今までおとなしかった者も、突然狂ったように騒がしくなり裸になって走り回る。そういう者に対しては、川辺に燃えやすい材質で六棟の小屋を作り、それに火をつけて屈強な若者が手を引いてその炎の中をくぐらせる。くぐり抜けるたびに刺のある枝の束で容赦なく打ち付ける。打ち付けられた者は血で全身真っ赤になるが、最後の小屋をくぐり抜けたら水をかけてもう一度枝の束で打ち清めるのだという。
 それでも正気に戻らない場合は、その者を何度も川の深みに投げ込んで溺れさせた。または、山へ連れて行き、ミズナラの大木に削り花を下げて、山の神にパウチを追い出してくれたら十分お礼をしますといって祈願し、付き添いの者が手を引いて木の周りを六回周らせ、一回周るごとに刺のある枝の束で打ち付けたという。
 詳細かつ荒っぽい対処法が段階的に用意されているところをみると、かつてのアイヌ人にとってパウチというのは単なる絵空事などではなくて、それなりに日常に関わってくるようなものだったことがうかがい知れる。

 パウチは、日頃は天界のシュシュランペツという川のほとりに住んでいて、男も女も全裸で性器を揺さぶりながら踊っているという。そして踊りながら川べりの柳の葉をちぎっては川に投げ込むということを繰り返している。その柳の葉が川に入ると「シュシャム」という魚になる。「シュシャム」とは柳の葉の意だが、これを和人は「シシャモ」と受け取った。即ち「柳葉魚」(ししゃも)のことである(ただしアイヌ語でシシャモと言えば「和人」を指す)。
 この魚は邪霊パウチより生み出された魚なので、かつてアイヌの社会では、人に贈るときは手渡しせず投げて渡したという。また、客に振舞うときも、まず一掴み客の前に投げ散らかしてからにしたという。それぐらい身近に信じられていた存在であり、常日頃シシャモを食べる現代の和人にも縁のある存在なのである。


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 パウチはこうして踊り暮らしているのだが、時折人間界に出没する。そんなときは村の背後の山野に現れて、人間の男女を誘惑して踊りの輪に加え、次第に踊りの群れを大きくしながら世界中を経巡っているのだという。
 有名な国語学者・アイヌ研究家金田一京助氏の弟子であり、「アイヌ神謡集」の編訳者・知里幸恵(ちりゆきえ)氏の弟でもある、アイヌ人の言語学者知里真志保(ちりましほ)氏が著した「えぞおばけ列伝」では、次のような話を紹介している。

─パウチの群れに出会った男─
 千歳のどこかの村にウエピカンという若い美貌の酋長がいた。彼がいつものように山から降りて来ると、川岸で大勢の男女が賑やかに踊っている。近づいてみると全員全裸で腰を前後に振りながら夢中になって踊っていた。
 彼が唖然として見ていると、踊りの輪の中から世にも美しい女がすうっと出てきて、彼の方に近寄ろうとした。その時彼はこれぞ噂に聞くパウチの群だと気付き、東方に向かって神々に大声で助けを求めて祈った。
 するとそれを聞いた神々が一斉に振り向いたため、女はなかなか彼に近寄ることができず、遠くから両手を差し伸べて、腰を前後に振りながらこのページ最上部にある歌を歌った。

 しかし、狂って全裸で走り回るのはともかく、全裸の男女の踊りの輪に加わって乱交し続けるというのは、現代人からすると、神に助けを求めなければいけない程大変なことではなく、むしろ無上の快楽のようにも思えるのだが、しかしアイヌの人々にとってそれはそれは恐ろしいものだという共通認識があったようだ。
 一時国会議員にもなり、アイヌ新法の成立に尽力した萱野茂氏が著した「カムイユカラと昔話」には、上の話よりももっともっと恐ろしい、次のような話が出ている(アイヌの伝承は基本的一人称で語られるので、構成上ここでは三人称に改めた)。

─パウチの群れとコタンの滅亡─
 ニカプ(現在の日高管内新冠(にいかっぷ)郡新冠町)にある男がいた。男の父親は成長して一人前になった男に、アプシ(日高管内沙流(さる)郡平取(びらとり)町貫気別(ぬきべつ)字アプシ)で自分の弟が村長をしており、その弟の娘をお前の許婚と決めてあるので、迎えに行くようにと言った。男は狩りが上手くてそれに忙しく、なかなか行こうとしなかったが、父親は怒るように何回も繰り返し迎えに行けというので、ようやく男も行く気になった。
 男はアプシのコタン(村)にたどり着いた。叔父の家に着くとやや年上のとても美しい娘がいたが、日々泣き暮らしていたためかまぶたが腫れ上がっていた。家に招き入れられると叔父夫婦もその息子二人もライペシュッイサムパシュッという死装束を身にまとって座っており、男は大いに驚いた。
 男が自分は甥であり父親にイトコを嫁にもらうように言われてやって来た旨を告げると、叔父は泣きながら死装束をまとっている理由を語った。

 叔父は、アプシへやって来て、コタンを持ち今まで平穏に暮らしていた。しかし、ある一年ほど前の夜のこと、夜中に小便をしに起きて外へ出てみると、なぜかアプシの山の上が真昼のように明るいのを見た。よくよく見れば、アプシの山の上でパウチカラペ サイェヘ(淫乱の男女の群れ)が全裸で踊っている。
 すっかり驚いた叔父は思わず知らず、「淫乱の神々よ、このように小さなコタンを仲間にしても仕方がない。東の方に十勝という大きなコタンがあるから、そこなら沢山の人間を仲間にできるでしょう。また人が大勢いて血のりの酒も飲めます。早く十勝へ行って下さい」と言ってしまった。するとその声が聞こえたかのように、パウチの群れは十勝へ向かって走り去った。
 叔父は恐ろしいことを言ってしまったと後悔していたが、やがて十勝のコタンの大方の人々がパウチの群れに加わって、走り回って死んでしまったという噂を聞いた。そしてそのうちに十勝の有名なヌプルエカシ(千里眼の老人)が、十勝にパウチの群れがやって来た理由をその能力により探るうち、叔父の言葉によるものだったと割り出した。
 怒った十勝アイヌは選りすぐりの弁の立つものを叔父の元に差し向け、アプシのコタン全員の命を取ると言ってきた。叔父は所持するうちでも最上級の宝物を差し出してコタンの人々の命乞いをしたが許されず、やがて宝物も返されて、近いうちに命を取りに行くから待っていろという言葉が来てしまった。
 もはやいつ討ち手が来るか分からないから、いつも死装束をまとって殺される日を待っている。しかし娘だけは兄との約束で甥の許婚であったので、早く迎えに来てくれないかと思っていたところだった、とのことであった。

 男は驚きと恐ろしさのあまり言葉もなかったが、ぐずぐずして討ち手に殺されてもいけないので、叔父の言う通り背負ってきた肉などを鍋に入れ煮て、叔父の家族と共に食べた。食べ終わった後、叔父は巻き込まれてはいけないから三年はこのコタンに来てはいけないと言い、すぐに出るように促した。別れ難くはあったが、叔父が叱るようにして二人を追い出したので、男とイトコの娘は叔父に言われた通り、道を外れて夜の草原や藪、森林の中を左右にくねくねと歩き、少し行っては野宿、少し行っては野宿を繰り返して、何日も何日も歩いた。
 どのくらい日が経ったか分からなくなって、ようやく男と娘はニカプに戻ってきた。男の母と娘は死ぬほど泣きながら労わり合い、父も男から弟の話を聞いて泣いた。男は精神が不安定になっている娘と急に結婚するのもかわいそうになり、しばらくはそっとしておいたが、父母の勧めによりついに結婚した。娘はその後も親兄弟のことを思って泣いてばかりいたが、そうして三年が経った。
 男とその妻は沢山の供物を持ってアプシのコタンを訪れると、そこには焼け残った柱の頭が所々に立っているだけで、生き残った者は誰もいなかった。妻は焼けた家の前で転がるようにして泣いた。そして丁重に叔父一家とコタンの人々を弔ってニカプに帰った。
 男は何人もの子を設け、やがて男の父母も亡くなり、男も年を取って亡くなる日が来た。男は死の間際に叔父の話を聞かせ、子孫にパウチの群れに気付いても決してそれを見たり言葉をかけたりせぬよう警告して、世を去ったのだった。

 ここまで来ると妙に血生臭く悲惨な現実味を帯びていて、もはや個人を襲う快楽の魔という感はない。突然やって来て村落社会を脅かす、戦慄すべき死神のような存在である。上述の著書の解説の中で、萱野氏は、淫乱の群れは男女ともに素っ裸で歌い踊りながら走り回り、行く先々で乱交を繰り返して淫欲にふけり、食事も取らず、最後にはこれに加わった全員が死んでしまうもので、その仲間に入ると声も良くなり、色っぽく、あだっぽく、一度魅入られたら絶対に抜け出せず、淫欲に明け暮れて、コタンは全滅するしてしまう恐ろしい集団とされている、と伝えている。そしてアイヌ社会では器量、愛嬌、声がよくて男を魅惑しそうな女をパウチコロペ(淫乱をもつ者)といって少しの嫉妬の念も込めて、蔑んで見たものだという。
 世界中に淫魔の話は数々伝えられているが、ここまで強烈なものもなかなかない。近代に至るまで、性交というものは子孫を残し社会を形成するものだという認識が現代よりもずっと強く、その意味で尊ばれるものでもあった。子孫が途絶えれば共同体が全滅するという可能性が現実的であった時代であればこそ、「コタンの全滅」というのもリアリティのある恐ろしさがあるのだが、それが現実的であればまた性欲をそこまで強く戒める必要はない。もっともだからこそ大勢が快楽のみを追求し出せばあっという間に社会が破滅してしまう訳で、そのための警世譚と見ることもできるだろう。だがそれにしても、淫乱の群れの前で巻き込まれないよう神に祈ったり、それがために共同体が全滅することもあるから気をつけろ、というのは、まるで一神教のごとき強固な宗教的貞操観念のように感じる。それだけの貞操観念を持ちつつ、かつこうした淫乱の群れを空想し得るというのは、アイヌの人々がそれだけ高度な倫理観と精神文化を持っていたということか。上述のパウチコロペの話などは、淫乱を戒めつつもどこか冗談めいているところがあって、まさしく高度な倫理観と精神文化の上に成り立つものではなかろうか。


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