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■東日本大震災 津波被災地見聞録 其之五
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□宮城県宮城郡松島町(平成二十三年十月二十九日訪問)

 日本三景の一つ松島は、三陸、東北のみならず、日本を代表する観光地。
 もちろんその松島にも津波は押し寄せた。

ただし松島湾に浮かぶ大小の島々と遠浅の海が津波をブロックしたため、松島観光の中心である、松島海岸駅や瑞巌寺、五大堂の周辺は、海に面しているにも関わらず、他の地域に比べれば、奇跡的に軽微な被害で済んだ。
ゴールデンウィークには早くも遊覧船が運航し、素早い復興を印象付けた。
筆者が訪問した十月二十九日の土曜も、多くの観光客で賑わっていた。


松島のシンボル五大堂は、数メートルの高さしかない小島の上に建っているが、どうやら津波による損傷は全くない様子。
石灯籠は倒壊しているが、これは地震によるものだろう。
石灯籠の倒壊は、震災後の東京でもよく見られた。

港の護岸等は、多少破壊された痕跡が残っているが、そこまで気にならないレベル。
ただフェリーターミナルはそれなりの被害を受けて修繕中のようで、仮設の建物で切符を販売していた。

松島の名所の一つ、有料人道橋でつながっている福浦島にも問題なく渡れる。

だが、この福浦島で清掃をしていたおじさんに話を聞いたところでは、人道橋の入り口は七十センチの高さまで浸水し、冷蔵庫等がダメになったとか。
海面からの高さで言うと、一メートル二十センチくらいらしい。

同じくおじさんの話によると、津波が引いたときに、松島の砂がかなり持っていかれてしまったようで、砂浜が激減してしまったとのこと。
顕著な例は上の写真にある、福浦島から見える引通島で、これは二つの島が砂浜でつながって一つの島を成していたものが、砂が持っていかれた事により、干潮になってもつながらず、完全に分離した二つの島になってしまったとのこと。

 このように、砂浜の激減により、松島の沿岸は陸地が減少し、海に侵食されたように見えるが、実際には潮位が津波前より下がったとのこと。
 津波が引いたときに、持っていかれた砂やその他の瓦礫等が、湾の入り口に堆積してダムのような役割をし、海水の流入量が減って、津波で引いた海水が湾内に戻らないままにしまったのだろうか。

被害が比較的軽微だったということで、海岸沿いの観光客向けの土産物屋や食堂などの店舗も、通常通り営業している。
位置ゲー「コロプラ」提携店の松島蒲鉾本舗も六月から営業を再開している。

 しかし六月から、ということは、三月から三ヶ月間は営業できなかった、ということでもある。
実際、松島のどこかで見たが、震災からしばらくは一帯がゴミだらけになり、小さな船などが陸にあがってしまっていたりもしたようだ。
 三陸の他の地域に比べれば軽微というだけであって、決して無傷だった訳ではない。
様々な人々の努力と気力でここまで回復しているのである。
 また、同時に、他の地域の被害があまりにも常識外に大き過ぎるとも言える。

旬の時期に入っていたので、松島では生ガキも食べられた。
これを食べた「南部屋」は、何年か前にも入った事があるのだが、何だか微妙に改装していて違和感を覚えた。
よく見ると、食堂の端に赤い線を引いた場所がある。そして貼り紙も。
「この高さ(一メートル二十センチ)まで津波が来ました」
というような事が書いてあった。

 なるほど、腰から胸の間くらいの高さまで水に浸かったようだ。それで、店の下部のみ改装されていたため、前に入った事があって、確かに記憶にある店の内装なのだけど、何かが違うように感じた訳だ。
 以前は完全に浜の大衆食堂、という感じで、今もそういう感じは残っているのだが、下半分はピカピカになっている。
 おそらく、震災当初は、店の営業を断念したくなるような状況だったのではあるまいか。しかし、それを乗り越えて、営業を再開し、今は多くの人で賑わっている。


□宮城県東松島市(平成二十三年十月二十九日訪問)

 震災と津波から力強く立ち上がった松島を後にし、松島湾の北の入り口にあたる奥松島へ。
 明治期に砂洲よって陸繋島となった、松島湾最大の島・宮戸島が、奥松島観光の中心だが、五大堂周辺ほどメジャーな場所ではないため、通向けの静かな場所となっている。

この宮戸島の最高地点、大高森の山頂(百六メートル)からは、松島湾とそこに浮かぶ大小の島々を眼下に見下ろす事が出来、その景色は「松島四大観」の一つ、「壮観」と呼ばれる。その美しい眺めは、津波の後でも変わる事はない。

だが、ここは松島湾の入り口である。
この宮戸島が、松島湾と外洋を分ける位置にあり、まさにこの辺りで津波をブロックしたからこそ、五大堂等松島湾の最奥の被害が比較的軽微だったのだ。
この山の麓は、津波の直撃を受けて甚大な被害を被っている。
この写真は、大高森から、水路を挟んだ宮戸島の北側を望んだところだが、水路の向こうは焼け野原のような凄惨な景色が広がっている。

これはその宮戸島と本土を分ける水路の南側(宮戸島側)あたりの写真。
家屋が斜めになって半ば水没しているなど、あまりにも現実感のない光景が広がっている。

 宮戸島は元々は完全に陸地と切り離された島であり、本土との間に段々と砂が堆積していって、明治期には陸と繋がってしまったため、戦後水路を開削し架橋したのだが、そこに超巨大津波が押し寄せて、またしても地形が変わってしまった。
 上の写真では、建物がある以上、陸地であったはずなのだが、今は海か、もしくは海と切り離されているにしても、水たまりというにはあまりにも巨大な池の中になってしまっている。
 このあたりは、このように陸だった場所が、水没して海になってしまったり、あるいは取り残された「巨大な水たまり」になってしまった場所が、あちこちで見られる。
 沖にクレーン車が水没したままになっているのも見かけた。外洋側の堤防も凄まじく破壊された後、復旧中のようで、ブルーシートが一キロは続けてかぶせられていた。  今現在、まさに復旧作業が行われている場所であり、ダンプも頻繁に通る。

 なお、この宮戸島の外洋側は、荒波に削られた断崖や奇岩が続く「嵯峨渓」と呼ばれる名所であり、岩手の猊鼻渓や大分の耶馬渓と並ぶ「日本三大渓」で、この水路のあたりから遊覧船も発着していたのだが、さすがにここの被害は凄まじく、まだまだ復旧中で、遊覧船の運航は再開していない。
 ただし、五大堂の近くの松島港から出る遊覧船ならば、嵯峨渓の観光も可能だ。
 また、既に見たように、大高森への道は通じているし、大高森への登山も特に支障はないので、「壮観」を眺める事は可能である。


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