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土蜘蛛紀行 豊後編
其之四、大野─ロ、阿志野
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狭山田女:お~、見事な棚田と段々畑だねえ~。しかしこれはまた、山深いところに来たね。
大山田女:知田より北西へ約九キロ、同じ豊後大野市の、朝地町(あさじまち)綿田(わただ)北平(きたびら)です。かつて阿志野(あじの)という地名があったのですが、現在の行政上の地名にはないようですね。

狭山田女:土蜘蛛がいた、って言われても不思議じゃないな山奥だけど、ここも日本書紀や豊後国風土記で、速津媛が景行天皇に語ったっていう「土蜘蛛の二つのグループ」に関係あるの?
大山田女:いえ、こちらはその「二つのグループ」とは関係ありません。日本書紀にも載っておらず、風土記のみに記載のある、別の土蜘蛛の伝承地です。
狭山田女:へ~、土蜘蛛とのあんな激戦が伝わるところからそんなに離れてない場所に、また別の土蜘蛛の話があるんだ。
大山田女:ただし景行天皇にまつわるものではあります。景行天皇がこのあたりにやって来たとき、土地に小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)という二人の土蜘蛛がいました。彼らは天皇に食事を出そうとして狩をするのですが、その狩をする時の声が大変やかましかったのです。そこで天皇は「大囂(あなみす)」と言いました。やかましい、という意味です。それで「大囂野(あなみすの)」という地名となりました。それが訛って、「網志野(あみしの)」というのだと。こちらに詳しく書いてあります。
狭山田女:討伐の話ではないけど、景行天皇が来たと言うんだから、他の土蜘蛛を討伐しに来たときだよね。
大山田女:もちろん風土記はそれを想定して書かれているはずです。一連の討伐の前か、最中か、後か、タイミングは分かりませんけども、行軍中に休憩か宿泊でもしたのでしょうね。
狭山田女:で、その「網志野」が、この「阿志野」なんだ。
大山田女:候補地として挙げられているのはここだけです。ただ風土記には「郡の西南」と書いてあるのですが、ここは明らかに西北です。これは筆写の際の誤記を前提とした比定ですね。最初に書かれた風土記の原本は残っていませんから。そういう訳ですから、確定的な比定地ではありません。

狭山田女:そっか。でもまあ、狩をするくらいだから、これくらいの山の中ではあったんだろうね。鹿とか猪とかを狩る訳でしょう。古代じゃこんなに田んぼや畑はなかっただろうし。今でもちょっと森へ入れば狩くらい出来そうだよね。
大山田女:ええ。狩の描写があるくらいですし、二人の土蜘蛛は農耕民ではなく狩猟民だったのでしょう。

狭山田女:狩をするときの声がやかましい、てのは、集団で獲物を追い込むときの合図とか掛け声の事かな。脅えさせるときにも叫び声を上げたりするよね。
大山田女:それが天皇の耳にはうるさく聞こえたのでしょう。
狭山田女:でも、いくら天皇とは言え、ひどい話だよね。料理を出すための狩の上での事なのに。
大山田女:そうですね。これは二人の土蜘蛛の、大和側から見た「野蛮な風習」を表現しているものでしょうけどね。天皇側は農耕民ですし、風土記を編纂した役人にしても、いわゆる「都会人」です。山奥の狩猟民の慣習、習俗などは「田舎臭い」ものに映ったでしょう。まだまだ国内の文化も均質ではなかった時代です。景行天皇の頃となると、南九州は王権・朝廷の勢力圏外でしたしね。このあたりは勢力圏の境界地帯。そもそも景行天皇の九州征伐自体、九州を支配下に治めるためのものでしょう。そのような時代の、辺境の山岳部では、下手をすると異民族くらいの文化の違いがあったかもしれません。土蜘蛛も出て来る肥前国風土記の五島列島の記述に至っては、風土記の時代ですら「漁民の言葉が違う」などと書かれています。また、その漁民達は「外見が隼人に似ている」とも書いてあります。隼人は何度か反乱を起こし朝廷に鎮圧された九州南部の土着民ですが、このあたりはまさにその隼人の勢力圏です。
狭山田女:土蜘蛛と隼人なんて大して違わないもんね。大和の人から見たら。
大山田女:時間的な違いがあるくらいですね。土蜘蛛が出てくるのは景行天皇やその皇子・日本武尊など半ば神話の時代。隼人の反乱が起きたのは風土記が書かれた頃。地理的にももう少し南になりますが、これは朝廷の勢力範囲による違いでしょう。風土記が書かれた頃は朝廷の最前線が日向・大隈・薩摩、今の宮崎県・鹿児島県で、景行天皇の頃の初期大和王権時代は最前線がもう少し北の豊後や肥前。最前線だった事は激戦の土蜘蛛討伐の話などからも明らかですね。隼人の文化は朝廷の記録から、大和のものとは大きく違うものだった事が分かります。隼人と外見が似ているという五島列島の漁民は、言葉まで違う。小竹鹿奥さん・小竹鹿臣さんも漁民でこそないものの狩猟民です。農耕民ではないですね。言葉が違うとまでは行かなくとも、天皇から見れば相当奇異な文化を持っていたのだと思います。そもそも「土蜘蛛」と書かれるくらいですから。
狭山田女:なるほど。単にやかましいだけじゃなくて、「異文化」だったんだろうね。隼人の仲間っていうか、ご先祖様みたいな感じだろうね。ただ「うるさい」とか言われたり、「野蛮人」とか思われつつも、小竹鹿奥さん・小竹鹿臣さんは天皇とは戦わなかったんだよね。むしろ食事出したり歓迎してる訳だよね。
大山田女:はい。近くの土蜘蛛が天皇軍と死闘を繰り広げる中、この二人、というよりも二人を首長とする部族なのでしょうが、彼らは天皇に従順だったようですね。どこか素朴な印象も伝わって来ます。土蜘蛛と呼ばれる人々も、大和の人々と戦うばかりではありませんから。
狭山田女:まさにあたし達がそうだったからなあ。
大山田女:天皇を中心とした大和の人々も、文化の違う私達のような辺境民を、滅ぼす事が目的なのではありませんからね。支配を受け入れ、国家体制に組み込まれればそれでいい訳です。ただ、戦わなくとも「土蜘蛛」と呼ばれる理由は、大和の人々との文化の違いにあるのでしょう。同じ豊後の五馬媛さんや、肥前の海松橿さん、そして私達のような、女性シャーマンが多い事もその一つでしょうね。
狭山田女:そういう色んな文化が混ぜ合わさって、「日本」になっていったんだろうねえ。
大山田女:そうですね。中でも九州南部や東北北部は、近畿に対する「異文化」の色彩が、他の地域よりも濃く残っているとは思いますが。ところで、阿志野という地名、行政上では残っていないようですけども、地元では意識されているようです。この北平には「阿志野郷」という農業法人もあるようですから。
狭山田女:地元の人も古い地名を大事にしてるんだね。
大山田女:なお、明治初頭までは、近隣の村々を含めた広い地域が「阿志野郷」と呼ばれていました。「郷」というのは古くは行政区分でしたからね。

狭山田女:それにしても、山並みも綺麗だし、いいところだねえ。
大山田女:美しい土地ですね。この風景を見ていると、小竹鹿奥さん・小竹鹿臣さんがいたという「網志野」は、やはりここなのではないかという気がします。穏やかな気持ちになりますからね。彼らも素朴ながら心根の優しい人達だったのではないでしょうか。


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狭山田女:血生臭い戦いの言い伝えがあるところの次に、割とのんびりした言い伝えのあるところにやって来て、ちょっとホッとしたよ。
大山田女:そうですね。しかし、景行天皇の豊後における土蜘蛛征伐は、まだ終わっていません。次はいよいよ「土蜘蛛最大の戦い」が行われた、豊後の最奥・直入郡へ入ります。
狭山田女:よし、気を引き締めなきゃ。阿志野への行き方は左の地図を参照するのだ。



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